ヘレネの誘拐、千艘の艦隊、十年の包囲、アキレウスの怒り、トロイの木馬。誰もが断片的には知っているのに、通しで物語として読んだことのある人は意外と少ない。それがトロイア戦争という、西洋文学の原点に位置する大叙事詩の不思議なところである。
物語の核は、ホメロスの二大叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』に語られている。岩波文庫の松平千秋訳が定番で、続けてトロイア滅亡後を描くウェルギリウスの『アエネーイス』(泉井久之助訳・岩波文庫)まで読み通せれば、トロイアからローマまでの三千年の物語の柱が頭に通る。ただ、いきなり原典に手を伸ばすのは少し勇気がいる。十年戦争のうち最後の五十一日間だけを扱うイリアスは、登場人物が膨大で、戦闘シーンが続く韻文ゆえに、読み通すのは初心者にはなかなかに骨が折れる。
そんなトロイア戦争の物語世界が、いま再び注目を集めている。クリストファー・ノーラン監督がIMAX全編撮影で挑む映画『オデュッセイア』が、2026年夏から秋にかけて公開予定。マット・デイモン、トム・ホランド、アン・ハサウェイらを擁する話題作で、ホメロスの物語が再び大画面で蘇る。公開前に予習しておきたいという人にも、観た後にもっと深く知りたいという人にも、間違いなく追い風の年だ。
この記事では、原典に挑むその前後の階段として、初〜中級者向けの入門書・再話・解説書・現代小説、そして漫画と映画を9作品紹介。
ホメロス物語 イリアス・オデュッセイア
著:森進一/岩波ジュニア新書/1984年刊

「怒りを歌え女神よ」の世界を、最も親切な水先案内で
「プラトンの『饗宴』」「テオプラストス『人さまざま』」などの翻訳で知られる西洋古典学者・森進一による、岩波ジュニア新書の一冊。ホメロスの二大叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』の全体像を、約200ページのコンパクトな分量に凝縮して解説する。
中高生向けのレーベルだが、これがまた驚くほど大人にも読み応えがある。あらすじを追うだけでなく、要所要所で原文の名場面が引用され、ホメロスの言葉そのものの香りに触れられる。「いきなりイリアスを開いてみたが挫折した」「人物の名前がカタカナで覚えられない」という人にとって、本書は最も信頼できる助走路となる。イリアスから先に読むか、オデュッセイアから入るか、その手引きとしても本書は的確だ。
ホメーロスの イーリアス物語
著:バーバラ・レオニ・ピカード/訳:高杉一郎/岩波少年文庫/2013年刊

児童文学の名訳が、戦士たちの誇りと死を一冊に凝縮する
イギリスの作家バーバラ・レオニ・ピカードが書いた、トロイア戦争最終局面の散文再話。訳は『チョコレート工場の秘密』などで知られる児童文学翻訳の大家・高杉一郎。アガメムノーンとの不和でアキレウスが戦線を退いてから、盟友パトロクロスの戦死、アキレウスとヘクトールの一騎打ち、そしてヘクトールの遺体返還と葬儀までを、原詩の構成に忠実に保ちながら、子どもでも読み通せるテンポで描き出す。
岩波少年文庫のレーベルにあるが、子ども向けと侮ってはいけない。原典『イリアス』はヘクトールの葬儀で幕を閉じるため、本書もそれに従う構成だ。トロイア戦争のクライマックスである「トロイの木馬」を期待して読むと肩透かしを食らうかもしれないが、ヘクトールの誇り高い最期、その遺体を返してもらいに敵将アキレウスのもとを訪れる老王プリアモスの場面など、原典のもつ哀切を見事に伝える。森進一のジュニア新書で輪郭をつかんだ後、本書で物語の手触りを取り戻すという読み方もできる。
ホメーロスの オデュッセイア物語(上・下)
著:バーバラ・レオニ・ピカード/訳:高杉一郎/岩波少年文庫/2014年刊

十年の漂流を時系列で。海と怪物と妻のもとへの帰還の物語
イーリアス物語と同じピカード×高杉一郎のコンビによる、オデュッセイアの再話。上下巻。トロイア戦争を勝利に導いた知将オデュッセウスが、故郷イタケー島をめざして地中海へ乗りだすが、ポセイドンの怒りを買って十年もの放浪を強いられる物語だ。
ホメロスの原典は、物語の途中から始まって過去を振り返る複雑な構造を取っているが、本書は時系列で組み直されているため、はるかに読みやすい。一つ目の巨人キュクロプス、魔女キルケ、セイレーンの誘惑、冥府降り、そして変装してイタケーへ戻り、求婚者たちを討つクライマックス。冒険譚として楽しみたい人にも、ホメロスの世界に触れたい人にも、最良の入口の一つになる。「オデュッセイアに関しては、大人向けの翻訳より児童文学版のほうが面白かった」という読者の感想も決して誇張ではない。
トロイア戦争全史
著:松田治/講談社学術文庫/2008年刊

散在する古典群を綴り合わせ、戦争の全貌を立ち上げる144話
西洋古典学者・松田治による、トロイア戦争を主題とするギリシャ・ラテン古典群の総合再話。イリアス、オデュッセイア、キュプリア、アイティオピス、アイネイスといった「叙事詩環」の作品群は、それぞれが戦争の一部だけを語っているため、ジグソーパズルのように繋ぎ合わせなければ全貌が見えてこない。本書はその作業を読みやすい現代日本語で行なってくれる、ありがたい一冊である。
「女神と人の結婚」「ギリシャ軍の集結」「トロイアの戦塵」「アキレウスの最期」「ギリシャ軍の頼みの綱」「トロイアの木馬」「トロイア陥落」の全7章144話。パリスの審判から、ヘレネの略奪、千艘の艦隊集結、十年の包囲戦、木馬計略、そしてトロイア陥落までを一冊で通読できる。「トロイア戦争について知りたければ、この一冊で十分だ」という著者の宣言は、決して大言壮語ではない。
トロイア戦争 歴史・文学・考古学
著:エリック・H・クライン/訳:西村賀子/白水社/2021年刊

「トロイア戦争は本当にあったのか」その問いに最新研究で挑む
ジョージ・ワシントン大学教授で考古学者のエリック・H・クラインが、三千年以上前の戦いの真相を多角的に検証した一冊。文学資料(ホメロスの叙事詩と叙事詩環)、文字資料(ヒッタイト文書)、考古学資料(シュリーマンの発掘から現代までのヒサルルック遺跡調査)の三方面から、トロイア戦争の歴史性を解きほぐしていく。
訳者は和歌山県立医科大学名誉教授で『ギリシア神話 神々と英雄に出会う』の著者でもある西村賀子。叙事詩が語る戦いの細部は青銅器時代のものか、それともホメロスが生きた鉄器時代の反映か。トロイアの王たちはヒッタイト文書にどう記録されているのか。物語の背後にあったかもしれない「現実」を探る知的興奮が詰まっている。叙事詩を物語として味わった後、「これは史実か神話か」と気になり始めた人に、確かな答えを与えてくれる本である。
アキレウスの歌
著:マデリン・ミラー/訳:川副智子/早川書房/2014年刊

パトロクロスの目で見た、半神アキレウスの輝きと最期
ブラウン大学で古典学修士号を取得し、高校でラテン語・ギリシャ語・シェイクスピアを教えてきたマデリン・ミラーのデビュー作。2012年、女性作家による優れた長編に与えられるオレンジ賞を受賞し、23カ国語以上に翻訳されたベストセラー。
イリアスでは脇役に過ぎないパトロクロスを語り手に据え、アキレウスとの少年時代の出会いから、ケイローン師のもとでの修行、トロイア戦争への従軍、そして二人の運命の結末までを描く。神々が人間に干渉するギリシャ神話の世界観を保ちながら、輝かしくも残酷なアキレウスの内面を、人を愛した一人の若者として浮かび上がらせる手腕は鮮やか。日本語版の紙の書籍は現在入手困難だが、Kindle版で読むことができる。ノーラン版『オデュッセイア』を観る前後に読んでおきたい、トロイア戦争の前日譚として最良の現代小説の一つ。
女たちの沈黙
著:パット・バーカー/訳:北村みちよ/早川書房/2023年刊

戦利品とされた女たちが、ついに口を開く
英国の戦争文学の旗手にしてブッカー賞作家パット・バーカーが、トロイア戦争を女たちの視点で語り直す『イリアス』語りなおし三部作。その第一作と第二作にあたる二冊が、現在日本語で読める。
第一作『女たちの沈黙』(2018年原書/2023年邦訳)は、リュルネソスの王妃ブリセイスを主人公に据える。彼女は敗戦後、家族と同胞を滅ぼした英雄アキレウスの戦利品として奴隷となる。服従か死か。そんな状況下で、ブリセイスが選んだ道とは。イリアスでは登場するのに何も語らなかった女たちが、本書では一人の人間として声を上げる。英国で40万部を超えるベストセラーとなり、ガーディアン紙の「21世紀に書かれた最良の本」にも選出された。
第二作『トロイの女たち』(2026年3月邦訳刊行)では、トロイア陥落後にギリシャ軍の戦利品となった女たちのその後が描かれる。息子を殺した男に仕える者、生贄として娘を差し出さねばならなかった者、望まぬ子を腹に抱える者。封じられてきた声が、ついに響き渡る。
マンガ・ギリシア神話 7 トロイの木馬/8 オデュッセウスの航海
著:里中満智子/中央公論新社(中公文庫)/2004年刊

黄金の林檎から二十年の漂泊まで、絵で味わうトロイア戦争の全貌
少女漫画の大家・里中満智子による全8巻のコミカライズ『マンガ・ギリシア神話』のうち、トロイア戦争前後の物語にまるごと二冊を割いた終盤2巻。第7巻『トロイの木馬』は「最も美しい女神へ」と刻まれた黄金の林檎をめぐるパリスの審判から始まり、ヘレネ略奪、ギリシャ軍の集結、不死身のアキレウスとヘクトールの激突、トロイの木馬の計略によるトロイア陥落、悲劇の王女エレクトラまでが描かれる。続く第8巻『オデュッセウスの航海』は完結巻にあたり、海神ポセイドンの怒りを買って十年の漂流を強いられるオデュッセウスの冒険と、故郷で夫の帰りを織物を解いて待ち続ける妻ペネロペの物語を綴る。
里中満智子の流麗なタッチが、神話と人間が混じり合う十年戦争の世界を臨場感豊かに立ち上げる。カッサンドラの予言、母テティスがアキレウスのために鍛冶神ヘパイストスに作らせる武具、プリアモス王の懇願。そして一つ目の巨人キュクロプス、魔女キルケ、ハデスの冥府、セイレーンの誘惑、女神カリュプソとナウシカア。イリアス的な戦闘の物語と、オデュッセイア的な知略と忍耐の物語の両方を、原典では別々の作品に散らばるエピソードを綴り合わせて、絵の力で見せてくれる。第8巻巻末ではローマ建国へつながるアエネアスの物語にも触れられ、トロイア戦争の余波までを一気に追える構成になっている。
トロイ
監督:ウォルフガング・ペーターゼン/2004年公開/配給:ワーナー・ブラザース

神々を脱ぎ捨て、人間ドラマとして甦らせたハリウッド版イリアス
『U・ボート』『ザ・シークレット・サービス』のウォルフガング・ペーターゼン監督による、ホメロス『イリアス』の大規模映画化。アキレスにブラッド・ピット、ヘクトルにエリック・バナ、パリスにオーランド・ブルーム、ヘレンにダイアン・クルーガー、プリアモス王にピーター・オトゥール。本編約163分。
本作の特徴は、神々の干渉を一切排除し、トロイア戦争を生身の人間たちのドラマとして描いた点にある。神話の英雄ではなく、名声と虚無の狭間で揺れる戦士アキレス、弟を庇い続けるが故に運命に絡め取られる王子ヘクトル、城壁の上から戦場を見下ろす老王プリアモス。ブラッド・ピットの鍛え上げた身体表現は神話の英雄像を肉体で蘇らせ、エリック・バナが演じるヘクトルは「祖国のために戦う男」の威厳を見事に立ち上げる。CGによる千艘の艦隊と巨大都市トロイアの城壁は、文字で読むだけでは想像しきれなかったスケールを目に焼き付けてくれる。原典に厳密ではないという批判もあるが、トロイア戦争の世界を映像で体感したい人にとっては今なお決定版である。

