茨城という土地には、不思議な引力がある。水戸黄門の威風、幕末の天狗党、筑波の研究学園都市、鹿島灘の荒波、大洗の港町、下妻の田んぼ道、日立の大煙突、鬼怒川沿いの農村。どれも単なる地名ではなく、それぞれに物語の匂いが染みついている。県魅力度ランキングで最下位常連と言われる土地が、なぜこんなにも小説家たちの想像力をかきたててきたのか。読めばその答えの一端が見えてくる。
ここでは、茨城を明確な舞台にした小説、あるいは茨城という土地が物語の核に深く食い込んでいる小説を11作品紹介する。明治の農民文学から幕末歴史小説、青春小説、現代恋愛、海辺の幻想、そして令和の町おこし物語まで。茨城という土地を縦横に味わえる11冊である。
夜のピクニック
著者:恩田陸 出版社:新潮社

夜を歩く。ただそれだけのことが、こんなにも特別になる
高校生活最後を飾る伝統行事「歩行祭」。全校生徒が夜を徹して80キロを歩き通すという北高の名物行事である。甲田貴子は密かな誓いを胸に抱いて歩行祭にのぞんだ。三年間、誰にも言えなかった秘密を清算するために。
水戸第一高校の「歩く会」をモデルにした青春小説で、本屋大賞と吉川英治文学新人賞をW受賞した恩田陸の代表作のひとつ。歩く、ただそれだけの行為がこんなにも豊かな物語になり得るのかと驚かされる。日常の延長線上にある非日常、夜の闇に守られた告白、足のマメ、たわいない会話。茨城の県道や田園を80キロにわたって歩き通す高校生たちの一夜が、読んでいる側の青春時代までゆっくりと引き戻してくる。誰の中にもある「あの頃の夜」を思い出させてくれる一冊である。
「夜のピクニック」の関連テーマ
光圀伝
著者:冲方丁 出版社:角川書店

水戸黄門は、傾奇者だった
老齢の光圀が、水戸・西山荘の書斎で己の生涯を綴り始める。なぜ「あの男」を自らの手で殺めることになったのか。父・頼房に与えられた壮絶な「試練」と対峙した幼少期。優れた兄・頼重を差し置いて世継ぎに選ばれたことに悩む日々。血気盛んな傾奇者として暴れまわり、宮本武蔵と邂逅する青年期。そして「大日本史」編纂という空前絶後の大事業に身を投じる藩主時代へ。
時代劇でおなじみの好々爺・水戸黄門像を完全に覆す、新しい徳川光圀の肖像である。山田風太郎賞を受賞したこの長編で、冲方丁は光圀の人生を「義とは何か」という問いに貫かれた物語として描き直した。兄の子を跡継ぎとすることへのこだわり、学問と詩歌への情熱、盟友や妻との死別。一人の人間が時代と格闘しながら、自らの大義を打ち立てていく過程が圧倒的な筆力で迫ってくる。水戸という土地が育んだ思想の根がここにある。
恋歌
著者:朝井まかて 出版社:講談社

君にこそ恋しきふしは習ひつれ
樋口一葉の師として知られる明治の歌人・中島歌子。物語は、入院した歌子を見舞った弟子の三宅花圃が、蒔絵で萩が描かれた文箱の中から手記を見つけるところから始まる。江戸の宿屋「池田屋」の娘として生まれた登世は、水戸藩士・林忠左衛門以徳との恋を実らせ、水戸に嫁いだ。しかし夫は尊王攘夷の急先鋒・天狗党の志士だった。やがて内乱が勃発し、登世も逆賊の妻として投獄される。
朝井まかて直木賞受賞作。水戸藩を舞台にした幕末小説は珍しく、しかも視点は天狗党に嫁いだ女性の側にある。桜田門外の変、尊王攘夷、天狗党と諸生党の凄惨な内紛、徳川慶喜による大政奉還。歴史の大波に呑まれていく女たちの過酷な獄中生活が圧倒的なリアリティで描かれる。そして晩年の歌子は、なぜ「萩の舎」を興し、樋口一葉という稀代の才能を育てたのか。31文字に込められた愛憎の物語が、読み終えたあとも長く胸に残る。
義烈千秋 天狗党西へ
著者:伊東潤 出版社:新潮社

義に殉じた男たちの、果てしなき西への行軍
元治元年(1864年)、水戸藩尊攘激派の藤田小四郎は、筑波山で挙兵する。天狗党と呼ばれた彼らは、攘夷の実行を朝廷に訴えるため京を目指すが、幕府による追討令が下り、行く先々で諸藩と戦闘を繰り広げることになる。頼みの綱だった一橋慶喜が討伐軍の総大将になっていたことを知り、加賀藩に投降。降伏した828名のうち352名が斬首されるという、幕末最大級の悲劇に呑み込まれていく。
司馬遼太郎の西国偏重史観の影に隠れ、長らく語られることの少なかった水戸藩尊攘運動の悲劇を、伊東潤が藤田小四郎を主人公に据えて熱量高く描き切った歴史長編。筑波山挙兵から敦賀での処刑まで、彼らはなぜ義を貫き通したのか。「自分たちは間違っていたのではないか」と問い続けながらも前へ進む男たちの姿に、読みながら何度も胸が締めつけられる。茨城の土から生まれた純度の高い「志」が、現代の読者に強く語りかけてくる。
至高聖所(アバトーン)
著者:松村栄子 出版社:福武書店(のちポプラ文庫)

整然と区画された学園都市で、彼女たちは聖域を探していた
筑波研究学園都市をモデルとした学園都市。大学の寮で新生活を始めたばかりの主人公・沙月は、奇妙な行動の多いルームメイト・真穂と相容れず、距離を取りながら大学生活を始める。しかし真穂が抱える孤独と痛みに、沙月は次第に引き寄せられていく。真穂は古代ギリシャ神殿の最奥にあった夢治療の場所「至高聖所」を舞台とした戯曲の創作に情熱を傾けていた。
第106回芥川賞受賞作。松村栄子は筑波大学卒業で、母校をモデルにこの中編を書いた。鉱物研究会で石をこつこつ叩いたり、寮で奇妙な共同生活を送ったり、芝居の脚本に夢中になったり。茨城の片隅に作られた特殊なコロニーで、若い女性二人が自分の輪郭を探していく姿が、あっさりとした文章で淡々と描かれる。鉱物のくっきりした結晶構造に安らぎを感じる沙月の感覚と、戯曲の中の「至高聖所」が重なっていくラストの幻想的な美しさが忘れがたい。
アンダスタンド・メイビー
著者:島本理生 出版社:中央公論新社

やっと見つけた、私だけの神様を
つくばに住む中学三年生の黒江は、研究者の母との二人暮らし。両親の離婚以来、家庭に居場所を見つけられずにいた。ある日、書店で目にした写真集に心を奪われ、カメラマンになるという夢を抱く。同じ頃、東京から転校生がやってくる。太めで垢抜けない印象の彌生に、なぜか心を奪われる黒江。そして故郷でのおぞましい体験から逃れるように、彼女は憧れのカメラマンが住む東京へ向かう。
直木賞作家・島本理生のデビュー10周年記念書き下ろし作品。「読む人を選ぶ小説」と評されることもある重厚な恋愛長編である。中三の春、つくばの研究学園都市の風景の中で芽生えた初恋が、その後の人生をどう揺さぶり続けるか。傷ついた少女が自分を守るために鈍感になり、それでも生きて、撮って、誰かを愛そうとする姿が、痛みとともに描かれていく。簡単な救いを差し出さない厳しさと、それでも希望に向かって閉じない終わり方が、長く心に残る。
アイロンのある風景
著者:村上春樹 出版社:新潮社(『神の子どもたちはみな踊る』所収)

鹿島灘の海辺で、流木を焚く男と家出娘の夜
鹿島灘にある茨城の海辺の町。家出してきた女子大生・順子は、ある男と知り合う。三宅さんと呼ばれるその中年男は、流木で焚き火をすることに執着していた。神戸の出身らしいが家族のことは語らない。順子は彼の絵画と、ジャック・ロンドンの短編「たき火」と、焚き火の炎をめぐる対話に、奇妙に惹かれていく。
阪神淡路大震災を背景にした連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』に収められた一編で、村上春樹作品の中では比較的目立たないが、独特の静謐さを持つ短編である。茨城の海辺は、震災から逃れてきた男にとっての避難所であり、家出してきた娘にとっても通過点である。極寒のユーコンで焚き火を熾そうとする男の生死を描いたジャック・ロンドンの「たき火」を順子は何度も読み返しており、その死と火のイメージが、鹿島灘の浜辺で燃える焚き火と静かに重なっていく。冬の海に打ち上げられる流木と、夜の焚き火と、語られないままの過去。鹿島灘の冷たい風が文章の隙間から吹き込んでくるような短編で、何度も読み返したくなる余韻が残る。
土
著者:長塚節 出版社:新潮社(新潮文庫など)

明治の鬼怒川沿いの農村に、確かに人々は生きていた
舞台は現在の常総市あたり、鬼怒川沿いの貧農の村。勘次という男と、その妻お品、幼い姉弟のおつぎと与吉、そして舅の卯平。お品が堕胎がもとで命を落とし、勘次は子どもたちを抱えて必死に働くが、舅との不仲や自らの盗癖がしばしば彼を窮地に追い込む。四季の移ろい、農作業の段取り、村の祭、土と闘い土に育まれて生きる人々の暮らしが、写生文と方言で精緻に描き出される。
夏目漱石の推薦で東京朝日新聞に連載された、日本農民文学の金字塔。長塚節は正岡子規の写生主義を継承した歌人でもあり、彼の唯一の長編小説がこの『土』である。明治末期の茨城の農民の暮らしが、メタファーも教訓もなしに、ただひたすら写実的に描かれる。鰯の油したたる描写、土浦の土方への偏見、お品の死の壮絶さ。100年以上前の作品とは思えないほど、農村の風景と人々の体温が立ち上がってくる。茨城という土地の根っこに触れる一冊である。
下妻物語 ヤンキーちゃんとロリータちゃん
著者:嶽本野ばら 出版社:小学館

四方八方田んぼだらけの下妻に、ロココの精神を宿す少女がいた
兵庫県尼崎から父親のバッタもの商売の都合で茨城県下妻に引っ越してきたロリータ少女・桃子。彼女は、ロココ時代の精神に生きると公言し、フリフリのロリータファッションを身にまといながら、四方八方田んぼだらけの下妻でひたすら浮きまくっている。大好きなお洋服欲しさに始めた個人販売で、桃子はバリバリのヤンキー少女・イチゴと出会う。見た目も趣味も全く違う二人のあいだに、なぜか不思議な友情が芽生えていく。
ロリータファッションの教祖的存在・嶽本野ばらの代表作で、深田恭子と土屋アンナ主演で映画化もされた一冊。下妻のジャスコ、田んぼ道、暴走族、ヤンキー文化、そしてヴィヴィアン・ウエストウッドへの偏愛。本来交わるはずのなかった二つの世界が、茨城の田舎町で出会い、笑いと友情を生んでいく。桃子の「我を貫く」生き方は、ファッションのカッコだけでなく、生き方そのものへの強い肯定として読める。下妻という地名が一気にポップに変換された、画期的な茨城小説である。
ある町の高い煙突
著者:新田次郎 出版社:文藝春秋

日立鉱山の煙害を、世界一高い煙突で乗り越えた人々がいた
明治38年、買収によって茨城の地に開業した日立鉱山。やがて鉱山の宿命ともいえる煙害が発生し、亜硫酸ガスが山を枯らし、農民たちの作物を奪っていく。立ち上がったのが地元の青年・関根三郎(モデルは関右馬允)である。郷士の名家に生まれ、旧制一高に合格し外交官を夢見ていた三郎は、祖父の死をきっかけに進学をあきらめ、煙害問題に生涯を捧げる決意を固める。試行錯誤の末、1914年、当時世界一の高さを誇る155.7メートルの大煙突が建設される。
『八甲田山死の彷徨』『武田信玄』の新田次郎が、日立鉱山の実話をもとに描いた長編。足尾や別子の悲劇がなぜ日立では繰り返されなかったのか。住民と企業が対立を超えて手を携え、気象観測のデータをもとに大煙突の建設に挑んだ実話が、新田次郎ならではの緻密な取材と気象描写で蘇る。CSR(企業の社会的責任)という言葉が生まれるはるか前に、茨城の小さな村で起きた奇跡の物語である。明治・大正の日立という工業都市の原風景に触れたい人にぜひ。
大洗おもてなし会議(ミーティング) 四十七位の港町にて
著者:矢御あやせ 出版社:マイナビ出版(マイナビ出版ファン文庫)

魅力度最下位の港町で、うまく笑えない女の子が民宿を継ぐ
舞台は茨城県大洗、漁業と観光の港町。この町で生まれ育った皆川涼子は、口下手で仏頂面、うまく笑うことができない。夢は祖母の民宿「松川荘」を継ぐことだが、接客に自信が持てない。東京からやってきた医師・加賀透に相談を持ちかけたところ、「大洗おもてなし会議」を開くことを提案される。あいさつをしない移住者の問題、外国人観光客の受け入れ、インスタ映え看板メニューの開発、そして松川荘を守る最終対決。
茨城県水戸市出身、大洗の近くで育った著者による地元愛あふれる現代小説。県魅力度ランキング最下位という現実をネタとして正面から扱いつつ、町おこしと主人公の成長を重ねたあたたかな物語。シラスのオムライス、あんこう料理、大洗の海と神磯の鳥居。地元の人にしか書けないディテールが満載で、読みながらお腹が空いてくる。アニメ「ガールズ&パンツァー」の聖地として全国に名を知られるようになった大洗が、なぜここまで愛される町になったのか。その秘密の一端がこの小説に詰まっている。

