四国の北西に位置する愛媛県は、古くから文学と深い縁のある土地だ。
松山は正岡子規を生み、夏目漱石が教壇に立ち、司馬遼太郎が壮大な物語の舞台に選んだ。道後温泉の湯けむり、しまなみ海道から望む瀬戸内の多島美、宇和島の城下町、内子の山あいの集落――。この県には、作家たちの想像力を刺激する風景がいくつも息づいている。
近年では本屋大賞受賞作やノーベル文学賞作家の故郷として、ふたたび愛媛を舞台にした物語に注目が集まっている。
今回は、明治の古典から令和の話題作まで、愛媛の空気をたっぷり吸い込んだ小説を9作品紹介したい。読み終えたあと、きっとあなたも瀬戸内の風に吹かれたくなるはずだ。
坊っちゃん
著者: 夏目漱石 出版社: 新潮社(新潮文庫)ほか各社文庫 初出: 1906年(明治39年)

親譲りの無鉄砲が、松山の街を駆け抜ける
東京生まれの青年が四国の中学校に数学教師として赴任し、曲者ぞろいの同僚や生徒たちと衝突しながら、自分の正義を貫こうとする物語。
愛媛を舞台にした小説と聞いて、まずこの作品を思い浮かべる人は多いだろう。漱石自身が松山中学に赴任した経験をもとに書かれたこの一編は、100年以上にわたって読み継がれてきた。道後温泉、松山城、路面電車――作中に登場する風景は今も松山の街に息づいていて、本を片手に歩けば、坊っちゃんと同じ景色の中に立っている気分になれる。
威勢のいい語り口と、どこか愛おしい不器用さ。短い小説だからこそ、何度でも読み返したくなる一冊だ。
「坊っちゃん」の関連テーマ
坂の上の雲
著者: 司馬遼太郎 出版社: 文藝春秋(文春文庫/全8巻) 初出: 1968年〜1972年(産経新聞連載)

松山の三人の若者が、近代日本を切り拓いた
伊予松山に生まれた秋山好古・真之兄弟と、正岡子規。陸軍、海軍、文学という異なる道を歩んだ三人の生涯を軸に、明治という時代そのものを描き出す大河小説。
物語は松山の城下町から始まる。貧しくも志の高い青年たちが、坂の上に輝く雲を目指して歩き出す姿がまぶしい。松山には現在「坂の上の雲ミュージアム」があり、作品世界に浸ることができる。
全8巻という長さに身構える人もいるかもしれないが、司馬遼太郎の筆致は不思議なほど読みやすい。明治の松山から始まり、やがて日露戦争の激動へと突き進んでいくスケール感は、読み始めたら止まらなくなる。日本の近代史に興味がある人にとっては、入口にして最高峰の作品だろう。
「坂の上の雲」の関連テーマ
万延元年のフットボール
著者: 大江健三郎 出版社: 講談社(講談社文芸文庫) 初出: 1967年

四国の谷間の村に、百年前の騒乱がよみがえる
知識人の兄・蜜三郎と、行動派の弟・鷹四。二人は故郷である四国の山あいの村に帰る。そこで弟は、万延元年(1860年)に起きた一揆の指導者になぞらえるかのように、村の若者たちを率いて騒動を起こし始める。
大江健三郎のノーベル文学賞受賞の評価基準ともなった代表作であり、故郷・愛媛県内子町の「谷間の村」が物語の原風景になっている。現在と過去、個人の内面と社会の構造が幾重にも重なり合う、濃密な読書体験が待っている。
正直に言えば、読みやすい小説ではない。しかし、四国の深い森と谷間の空気を通して、人間の暴力性や共同体の根源に迫ろうとするこの物語には、他のどの小説にも代えがたい凄みがある。大江文学への入口として、あるいは愛媛の奥深さを知る一冊として。
汝、星のごとく
著者: 凪良ゆう 出版社: 講談社 刊行: 2022年 受賞: 2023年本屋大賞

瀬戸内の島で出会った二人の、15年の愛と葛藤
愛媛県今治市の瀬戸内海に浮かぶ小さな島。複雑な家庭環境を抱える高校生の暁海と櫂は、互いの孤独に惹かれ合い、やがて恋に落ちる。しかし卒業後、櫂は東京へ、暁海は島に残り、二人の距離は広がっていく――。
2023年の本屋大賞に輝き、2026年には映画公開も予定されている話題作。閉塞的な島のコミュニティ、親の呪縛、社会が押しつける「正しさ」。そうしたものに押し潰されそうになりながらも、自分の人生を自分で選び取ろうとするふたりの姿が胸に迫る。
凪良ゆうは取材のために何度も今治を訪れたといい、穏やかな瀬戸内の海の描写は息をのむほど美しい。読後、しまなみ海道をドライブしたくなる人は少なくないだろう。
天使は奇跡を希う
著者: 七月隆文 出版社: 文藝春秋(文春文庫) 刊行: 2016年

しまなみ海道の風に乗って、天使が降りてきた
愛媛県今治市の高校に通う良史のクラスに、転校生の優花がやってくる。彼女の正体は天使で、再び天国へ帰るためには「奇跡」を起こさなければならない。良史は幼なじみの成美や健吾とともに、優花の願いに協力することになる。
しまなみ海道、亀老山展望台、今治城、今治タオル――物語のそこかしこに今治の名所や名産品が登場し、瀬戸内の穏やかな空気感がページの隅々まで行き渡っている。サイクリングで橋を渡るシーンは、まるで自分もペダルを踏んでいるような爽快さだ。
ファンタジーの皮をまとっているが、その芯にあるのは「大切な人のためにできること」という普遍的なテーマ。読み終えたあと、しまなみ海道の潮風が恋しくなる、そんな切なくてあたたかい物語。
巡礼の家
著者: 天童荒太 出版社: 文藝春秋 刊行: 2019年

道後温泉のへんろ宿が、傷ついた魂の帰る場所になる
家を飛び出した15歳の少女・雛歩は、旧へんろ道で倒れたところを道後温泉の老舗旅館「さぎのや」の女将に助けられる。お遍路さんや行き場を失った人々を迎え入れてきたこの宿で、雛歩は少しずつ心を開いていく。
『悼む人』で直木賞を受賞した天童荒太は、松山市・道後温泉の近くで生まれ育った。その著者が故郷を舞台に、四国遍路の「お接待」の精神を物語の核に据えて描いた再生の物語だ。
読んでいると、まるでぬるめの温泉に浸かっているような、じんわりとした温かさに包まれる。道後温泉の湯気の向こうに、人の優しさがゆらゆらと立ち上っている。四国を旅する前に読めば、出会う人々の笑顔がいっそう深く見えるかもしれない。
八月の母
著者: 早見和真 出版社: KADOKAWA 刊行: 2022年(2025年6月文庫化)

愛媛の小さな町で、母と娘の鎖が三世代を縛る
愛媛県伊予市の団地を舞台に、三世代にわたる母と娘の歪んだ愛憎を描いた長編。閉塞的な土地で、男に依存する生き方しか知らなかった美智子、その娘のエリカ、そしてエリカの娘たち。やがて歪みは暴走し、ある夏の日に取り返しのつかない事件が起きる。
2014年に愛媛県で実際に起きた凄惨な事件がモチーフとなっており、著者の早見和真は愛媛に6年間住んだ経験からこの作品を書き上げた。母性とは何か、土地に縛られるとはどういうことか。重いテーマに真正面から向き合った一冊だ。
読むのに覚悟が要る作品ではある。しかし、最後の30数ページで物語が反転する瞬間、それまでの重さが光に変わる。愛媛の夏の暑さと湿度が、読後もしばらく肌に残り続ける。
がんばっていきまっしょい
著者: 敷村良子 出版社: 幻冬舎(幻冬舎文庫) 初出: 1995年(坊っちゃん文学賞受賞)

松山の女子高生たちが、ボートに青春を賭けた
松山の女子高校で、廃部寸前のボート部を立て直そうと奮闘する少女たちの物語。タイトルの「がんばっていきまっしょい」は、愛媛の学校で実際に使われている掛け声だ。
映画化やテレビドラマ化もされた青春小説の名作で、松山港や瀬戸内の海を舞台に、不器用な少女たちがオールを握り、ひたむきに水面を漕いでいく姿がまぶしい。勝てなくても、うまくいかなくても、仲間と一緒に汗を流す日々の輝き。
愛媛の方言が飛び交う会話に、思わず頬がゆるむ。松山の日常の風景が、どこか懐かしく、どこか眩しい。青春小説として純度が高く、年齢を問わず楽しめる作品だ。
「がんばっていきまっしょい」の関連テーマ
大番
著者: 獅子文六 出版社: ちくま文庫(上下巻) 初出: 1956年〜1958年(週刊朝日連載)

宇和島の田舎者が、兜町を揺るがす相場師になるまで
愛媛県宇和島の山村に生まれた青年・ギューちゃんこと大松勝利が、裸一貫で上京し、株式市場でのし上がっていく痛快な立身出世物語。
実在の相場師をモデルにしたこの小説は、昭和30年代にテレビドラマ化されて大ヒットし、当時の日本中を熱狂させた。宇和島弁丸出しで東京の証券街に殴り込みをかけるギューちゃんの豪快さと人情味が、読んでいて実に痛快だ。
現在は知名度がやや落ちているが、獅子文六の軽妙な筆致は今読んでも色褪せない。宇和島の素朴な風土から飛び出した男の破天荒な人生を通して、昭和の日本のエネルギーが伝わってくる。愛媛の「南予」エリアを描いた小説として、貴重な存在でもある。
瀬戸内の風は、物語を運んでくる
松山の城下町、道後の温泉街、今治のしまなみ海道、宇和島の山あい、内子の谷間――。同じ愛媛県でも、舞台が変わるだけで物語の色合いはまったく違うものになる。
明治の気骨、昭和の破天荒、令和の繊細さ。時代が変わっても、この土地には作家たちの想像力をかき立てる何かがある。それは穏やかな瀬戸内の海かもしれないし、石鎚山系の深い森かもしれない。あるいは、お遍路さんを温かく迎え入れてきた人々の気質そのものかもしれない。
次回は香川県・徳島県を舞台にした小説を紹介予定だ。四国の物語の旅は、まだまだ続く。


