ミステリには、謎を解く快感とはまったく別の楽しみ方がある。
薄暗いオフィスに一人座る私立探偵。安い煙草の煙と、グラスの底に残ったバーボン。依頼人はたいてい嘘をつき、警察は探偵を疎み、街は腐敗に満ちている。それでも探偵は動く。自分の中の一線だけは譲れないから。
ハードボイルドとノワール。どちらも犯罪の世界を描くが、視点が違う。ハードボイルドは探偵の側から、ノワールは犯罪者の側から。前者には矜持があり、後者には墜落がある。けれどどちらにも共通するのは、人間の弱さと強さを同時に描き出す筆の力だ。
今回は、古典の名作から現代の話題作まで、ハードボイルドとノワールの世界を味わえる11作品を紹介する。苦みのある物語が好きな人は、ぜひ手に取ってみてほしい。
マルタの鷹
著者:ダシール・ハメット 訳者:小鷹信光(改訳決定版)/ 出版社:早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫) ※2025年に田口俊樹による新訳版が東京創元社(創元推理文庫)からも刊行されている

すべてのハードボイルドは、この男から始まった
サンフランシスコの私立探偵サム・スペードのもとに、若い女が妹の捜索を依頼しにやってくる。だが翌朝、スペードの相棒が射殺され、尾行対象の男も死体で発見される。女の依頼には裏があった。やがてスペードは、中世のマルタ騎士団に由来する黄金の鷹像をめぐる血みどろの争奪戦に巻き込まれていく。
1930年発表。ハードボイルドというジャンルを確立した記念碑的作品だ。スペードは感情を表に出さず、心理描写も徹底的に排されている。彼が何を考えているのかは、行動からしか読み取れない。その乾いた文体こそが、後続のすべてのハードボイルド作家に影響を与えた。
ハンフリー・ボガート主演の映画でも知られるが、原作の冷徹さは映画以上だ。スペードは正義の味方ではない。だが、自分なりの筋は通す。その美学が、90年以上経った今なお読者を惹きつけている。
さらば愛しき女よ
著者:レイモンド・チャンドラー 訳者:清水俊二 / 出版社:早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫) ※村上春樹訳『さよなら、愛しい人』(早川書房)でも読める

大きな男が捜していたのは、ただひとりの女だった
刑務所を出たばかりの大男ムース・マロイは、かつて愛した女ヴェルマを捜していた。その最中に殺人を犯してしまったマロイの事件に、偶然居合わせた私立探偵フィリップ・マーロウ。やがてマーロウは、盗まれた翡翠の首飾りの取引に巻き込まれ、気がつけば二つの事件が一本の糸でつながっていく。
チャンドラー長編第2作にして、多くのファンが最高傑作と評す一冊。マーロウの皮肉と叙情が最もバランスよく調和した作品で、全編に流れる哀切なトーンは他のマーロウものとは一味違う。大鹿マロイという不器用な犯罪者の造形が素晴らしく、ラストの余韻はいつまでも消えない。
なお、本シリーズの入門編では同著者の『長いお別れ』を紹介している。チャンドラーの世界に触れたことがある方は、ぜひこちらも。マーロウの若さと行動力、そしてより濃密なロサンゼルスの闇を味わえる。
郵便配達は二度ベルを鳴らす
著者:ジェイムズ・M・ケイン 訳者:田口俊樹 / 出版社:新潮社(新潮文庫) ※光文社古典新訳文庫(池田真紀子訳)でも読める

欲望に火がついた瞬間、転落は始まっていた
流れ者のフランクは、街道沿いの安食堂に立ち寄り、そこで働くことになる。食堂の主人は中年のギリシャ人。その若い妻コーラに、フランクは一目で惹かれた。やがてふたりは食堂の主人を殺す計画を立てる。完璧なはずだった犯罪は、しかし、ふたりの関係そのものを蝕んでいく。
1934年発表。ノワールの原型とも言うべき作品だ。犯罪者の側から物語が語られ、読者は共犯者の視点に置かれる。善悪の判断を挟む余地はなく、ただ欲望と破滅の力学だけがある。ケインの文章は短く、乾いていて、一切の装飾がない。その素っ気なさが、かえって人間の業をくっきりと浮かび上がらせる。
ルキノ・ヴィスコンティ、ボブ・ラフェルソンら複数の監督によって映画化されているが、原作の生々しさに匹敵する映像化はまだない。
ポップ1280
著者:ジム・トンプスン 訳者:三川基好 / 出版社:扶桑社(扶桑社ミステリー)

人口1280人の町で、保安官は微笑みながら人を殺す
アメリカ南部の小さな町ポッツヴィル。その保安官ニック・コーリーは、のんびりした好人物に見える。誰にでも愛想がよく、揉め事があっても「まあまあ」とやり過ごす。だが、この男の内側には、想像を絶する暗闘が渦巻いていた。
ジム・トンプスンはノワールの極北と呼ばれる作家で、本作はその最高傑作のひとつ。一人称で語られるニックの独白は、最初は間抜けな田舎の保安官のそれに見える。だが読み進めるうちに、彼の本性がじわじわと露わになっていく過程が恐ろしい。善人の仮面の下に潜むものを描かせたら、トンプスンの右に出る作家はいない。
フランスのベルトラン・タヴェルニエ監督がこの作品を翻案した映画『ク・ド・トルション』(1981年)では、舞台をアメリカ南部からフランス領西アフリカに移して映像化された。本国アメリカよりもフランスで先に再評価された異色の経歴を持つ作家でもある。
深夜プラス1
著者:ギャビン・ライアル
訳者:鈴木恵(新訳版)/ 出版社:早川書房(ハヤカワ文庫NV)
※1976年刊行の菊池光訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)も、硬質で張りつめた文体で根強いファンが多い

深夜零時を過ぎた先に、男の矜持だけが残る
イギリス人の元工作員ルイス・ケインは、ある実業家をフランスからリヒテンシュタインまで車で護送する依頼を受ける。制限時間は厳しく、道中には暗殺者が待ち構えている。助手は酒浸りのアメリカ人ガンマン。満身創痍の逃走劇が、ヨーロッパの夜道を駆け抜ける。
1965年発表。アメリカではなくイギリス産のハードボイルドであり、冒険小説としても屈指の名作だ。ケインは多くを語らない男で、過去に何があったのかも断片的にしか明かされない。だがその行動のひとつひとつから、彼がどういう人間であるかは痛いほど伝わってくる。
カーチェイスの描写は翻訳小説の中でも最高峰。車に詳しくなくても、スピードと緊張感が文章から立ち上ってくる。深夜零時を過ぎてからの展開は、読んでいて手が震える。
八百万の死にざま
著者:ローレンス・ブロック 訳者:田口俊樹 / 出版社:早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)

ニューヨークの800万人のうち、誰もが死にゆく
コールガールのキムが、足を洗いたいからヒモと話をつけてくれと無免許の私立探偵マット・スカダーに依頼する。スカダーがヒモに会うと、男は意外にも物分かりがよく、あっさり承諾した。だがその直後、キムが惨殺される。スカダーは容疑者となったヒモから、真犯人探しを依頼される。
マット・スカダーシリーズ第5作にして、シリーズ最大の転機となる一冊。アルコール依存症と闘いながらマンハッタンの安ホテルに暮らすスカダーは、チャンドラーのマーロウとはまったく異なるタイプの探偵だ。タフさの代わりにあるのは、脆さと、それでも歩き続ける意志。
ニューヨークという都市の孤独と、そこに暮らす人々の死に様が、スカダーの一人称を通じて静かに積み重なっていく。シェイマス賞最優秀長篇賞受賞。
初秋
著者:ロバート・B・パーカー 訳者:菊池光 / 出版社:早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)

少年を救ったのは、拳でも銃でもなく、大人の背中だった
ボストンの私立探偵スペンサーは、離婚した元夫に息子を連れ去られたという女性から依頼を受ける。だが息子のポールは、両親の身勝手な争いの中で、すっかり無気力になっていた。スペンサーはポールを引き取り、一緒に暮らしながら、少年に「自分で立つ力」を教えていく。
スペンサーシリーズの中でも異色の一作。派手な事件や銃撃戦よりも、ひとりの大人と少年の関係が物語の中心にある。スペンサーはポールに料理を教え、大工仕事を教え、ボクシングを教える。それは技術の伝授ではなく、「自分で何かを作れる人間になれ」というメッセージだ。
ハードボイルドの主人公が少年と向き合う姿は、このジャンルの懐の深さを示している。スペンサーの相棒ホークの存在感も光る。
LAコンフィデンシャル
著者:ジェイムズ・エルロイ 訳者:小林宏明 / 出版社:文藝春秋(文春文庫)

天使の街の底は、真っ黒に腐っている
1950年代のロサンゼルス。コーヒーショップで起きた大量殺人事件(ナイト・オウル事件)を軸に、三人の刑事の物語が交錯する。出世欲に燃えるエド・エクスリー、暴力的だが正義感の強いバド・ホワイト、芸能界とのコネクションを持つジャック・ヴィンセンズ。三者三様の思惑が絡み合い、LAの闇の深部へと読者を引きずり込む。
ジェイムズ・エルロイの「LA四部作」の第三作。エルロイの文体は異様だ。短い文章が機関銃のように連射され、登場人物の数は膨大で、プロットは複雑怪奇。だが、その暴力的な密度こそがこの作家の持ち味であり、読み終えたときの疲労感は、ひとつの時代を丸ごと体験したかのよう。
なお、同じLA四部作の第一作『ブラック・ダリア』も名作だ。1947年に実際に起きたエリザベス・ショート殺人事件を下敷きにした物語で、エルロイのノワール世界の入口として読むならそちらもおすすめ。
さむけ
著者:ロス・マクドナルド 訳者:小笠原豊樹 / 出版社:早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)

過去の罪は、時間を超えて家族を蝕む
新婚旅行の初日に、新妻ドリーが突然姿を消した。途方に暮れる夫から依頼を受けた私立探偵リュウ・アーチャーは、ドリーの失踪の背後に、彼女の過去の影が尾を引いていることに気づく。やがて殺人事件が起き、捜査はドリーの家族が抱える深い闇へと遡っていく。
ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラーに続くハードボイルドの巨匠、ロス・マクドナルドの最高傑作。アーチャーはスペードやマーロウとは異なり、自ら行動するよりも「聞く」探偵だ。関係者の話に耳を傾け、過去の断片をつなぎ合わせていく。その過程で浮かび上がるのは、親から子へ、子から孫へと受け継がれてしまう罪と傷の連鎖。
タイトルの『さむけ』は、真相が明かされたとき読者が感じるものそのものだ。CWAシルヴァー・ダガー賞受賞。ハードボイルドの枠を超え、家族小説としても深い一作。
二流小説家
著者:デイヴィッド・ゴードン 訳者:青木千鶴 / 出版社:早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)

才能のない作家が、殺人鬼の自伝を書くことになったら
ハリー・ブロックは、ポルノ小説やSF小説をペンネームで書き散らしている売れない作家。ある日、死刑囚の連続殺人犯ダリアン・クレイから、自分の手記を書いてほしいという依頼が舞い込む。金に困っていたハリーは引き受けるが、取材を進めるうちに、クレイの事件には奇妙な矛盾があることに気づく。
2011年発表。ノワールの伝統を踏まえつつ、ユーモアと自虐が随所に効いた現代的な一作だ。ハリーは探偵でもなければタフガイでもない。どこまでも冴えない中年男が、それでも真実に迫ろうとする姿には、古典的なハードボイルドのヒーローとは別種の共感がある。
日本では「このミステリーがすごい!2012年版」海外編第1位を獲得。「週刊文春ミステリーベスト10」「ミステリが読みたい!」でも1位に輝き、海外ミステリ部門の主要ランキング史上初の三冠を達成した。B級の香りが漂う軽妙な語り口の奥に、しっかりとした骨格のミステリが組み込まれている。
拳銃使いの娘
著者:ジョーダン・ハーパー 訳者:鈴木恵 / 出版社:早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)

父と娘が手にしたのは、銃と、もう一度やり直す時間
刑務所から出たばかりのネイトは、かつて自分が敵に回した犯罪組織から、元妻と11歳の娘ポリーに殺しの脅迫が出ていることを知る。元妻は殺され、ネイトはポリーを連れて逃走を始める。父を憎んでいたポリーは、しかし、追っ手から逃げる日々の中で、否応なく父の世界に足を踏み入れていく。
2017年発表。エドガー賞最優秀新人賞受賞作。ノワールの世界に「父と娘」という関係を持ち込んだことで、このジャンルに新しい感情の層が加わった。ネイトは悪人だ。だがポリーを守ることだけは本気で、そのために彼はさらに深い闇へ踏み込んでいく。
11歳のポリーの視点で描かれるパートが特に秀逸。子どもの目に映る暴力の世界は、大人の視点とはまったく違う手触りを持っている。疾走感と切なさが同居する、現代ノワールの傑作だ。

