栃木県といえば、日光東照宮や那須高原、宇都宮の餃子といったイメージが浮かぶ人が多いだろう。だが小説の世界に目を向けると、この土地はミステリーの舞台として古くから重宝されてきたし、近年は文学賞の候補になるような意欲作の舞台としても存在感を増している。
日光の荘厳な建築、渡良瀬川の広い河川敷、大谷石の採掘地、そして海のない県にあえて置かれた水産高校。栃木という土地が持つ具体的な手触りは、書き手の想像力を刺激してきたようだ。ここでは、栃木県が物語の重要な舞台となっている小説をご紹介。旅情ミステリーの定番から、芥川賞候補となった話題作まで、ジャンルを問わず選んでみました。
火車
宮部みゆき/新潮社(新潮文庫)

消えた婚約者の名前は、誰のものだったのか
刑事を休職中の本間俊介は、遠縁の青年から頼まれ、突然失踪した婚約者の行方を捜すことになる。手がかりを追ううちに、その女性が別人の戸籍を使って生きていたことが判明する。本間は彼女の足跡を宇都宮の街まで辿りながら、彼女がなぜ他人の名前を必要としたのかという謎に迫っていく。
多重債務という誰の身にも起こりうる恐怖を軸に据えながら、一人の女性の人生を執念深く辿るプロセスがそのままミステリーとして機能している構成が見事だ。宇都宮に実在する町並みを思わせる描写も含め、社会派ミステリーの厚みを実感できる一作である。
日光殺人事件
内田康夫/角川書店(角川文庫)

紅葉の名所に眠っていたのは、二年越しの真実
取材で日光を訪れていたルポライターの浅見光彦は、華厳ノ滝付近で人が身を投げる現場に居合わせる。遺体を引き上げると、その下からもう一体、二年前に失踪した男の白骨死体が見つかった。地元の旧家に伝わる因縁を辿りながら、浅見は二つの死の関係を解き明かしていく。
シリーズ探偵らしい飄々とした浅見の語り口と、日光の紅葉や滝といった観光地の情景描写が心地よく重なる。旅先で起きた事件を追いながら土地の空気そのものを味わえる、旅情ミステリーの王道を行く一冊だ。
QED 東照宮の怨
高田崇史/講談社(講談社文庫)

陽明門に刻まれた紋様は、四百年前の呪だったのか
貴重な三十六歌仙絵を所有していた人物が、次々と何者かに殺害される事件が起きる。手がかりを追ううちに事件の背景には日光東照宮に施された意匠が関わっていることが浮かび上がり、博識な薬剤師・桑原崇が陽明門や三猿、北斗七星になぞらえた配置に隠された歴史の謎を読み解いていく。
徳川家康を祀る東照宮の建築ひとつひとつに、政治的な意図や呪術的な意味を見出していく論理の運び方が痛快だ。読み終えたあと、実際に日光を訪れて彫刻を見上げたくなるような、蘊蓄型ミステリーの完成度の高さを味わえる。
リバー
奥田英朗/集英社

十年前と同じ河川敷に、また遺体が横たわっていた
栃木県足利市と群馬県桐生市を流れる渡良瀬川の河川敷で、若い女性の遺体が相次いで発見される。手口は十年前に起きた未解決の連続殺人事件と酷似していた。同一犯なのか、それとも模倣犯なのか。刑事、新聞記者、そして当時の被害者遺族、それぞれの視点から十年越しの真相が少しずつ手繰り寄せられていく。
複数の立場から事件を描く群像劇の巧さが際立つ、読み応えのある犯罪小説だ。二つの県境をまたぐ捜査という設定が、地方ならではのもどかしさや人間関係の距離感をリアルに浮かび上がらせている。
皆のあらばしり
乗代雄介/新潮社

城跡のベンチで交わされる会話が、歴史の扉を開けていく
栃木市の皆川城址を訪れた歴史研究部の高校生「ぼく」は、そこで関西弁を話す素性不明の中年男に声をかけられる。男は江戸時代の豪商が記したとされる幻の書物、皆のあらばしりの行方を追っており、ぼくは半ば巻き込まれる形でその調査に協力することになる。
城跡での対話を中心に物語が進むという大胆な構成でありながら、歴史ミステリとしての謎解きの興奮もきちんと成立している。地元の郷土史を丹念に取材した舞台描写の緻密さも、この作品の大きな魅力だ。
エレクトリック
千葉雅也/新潮社

雷鳴とインターネットの狭間で、高校生は自分を知っていく
1995年、雷都と呼ばれる宇都宮。高校2年生の達也は東京への憧れを抱えながら、オーディオ機器の製作に打ち込む父や家族と静かな日々を送っている。父の指示で家族の誰よりも早くインターネットに接続した達也は、そこで思いがけないコミュニティと出会い、自分でも気づいていなかった自分の輪郭に触れていく。
哲学者でもある著者が、思春期特有の落ち着かなさを雷やアンプの電流といったモチーフに重ねて描く筆致が印象深い。宇都宮という具体的な土地の匂いと、誰にでもある自己発見の痛みが静かに結びついている。
小説 秒速5センチメートル
新海誠/KADOKAWA(角川文庫)

大雪の夜、電車を乗り継いだ先に、消えたはずの距離が待っていた
東京の小学校で誰よりも通じ合っていた遠野貴樹と篠原明里は、明里の転校によって離れ離れになる。手紙のやり取りだけで気持ちをつなぎとめていた二人だったが、中学生になったある大雪の日、貴樹は栃木へ向かう長い電車を乗り継ぎ、一年ぶりの再会を果たすため一人で旅に出る。
劇場アニメ版を監督自身が小説化した作品で、映像だけでは語られなかった登場人物たちの内面が、より深く掬い取られている。物語の舞台となった栃木市の岩舟駅は今も聖地巡礼の地として親しまれ、2025年には実写映画化もされるなど、公開から年月を経てなお読み継がれている。
関連テーマ
遠雷
立松和平/河出書房新社(河出文庫)

遠くで鳴る雷は、この土地に近づく変化の音だった
宇都宮近郊で農業を営む家に生まれた青年・満夫は、工業団地や住宅団地の開発によって先祖代々の土地の大半を手放し、できた工場に勤めに出る。しかしその生活も長くは続かず、父は家を出て愛人と暮らし始める。それでも満夫は、わずかに残った土地にビニールハウスを建て、トマトの栽培にすがるようにして日々を送っていく。
著者自身の出身地である宇都宮の風土を丹念に描き込み、高度成長後の日本で進んだ都市化と近郊農村の変質を、一人の青年の目線から浮かび上がらせている。野間文芸新人賞を受賞した、栃木を語るうえで欠かせない文学作品だ。
百年厨房
村崎なぎこ/小学館

百年前のレシピが、凍りついた食卓を溶かしていく
宇都宮市大谷町の旧家に一人で暮らす公務員の大輔のもとに、ある日見知らぬ若い女性が現れる。彼女はアヤと名乗り、明治生まれで大輔の祖父に仕えていたのだという。半信半疑だった大輔だが、アヤが作る百年前のレシピの数々に触れるうちに、食にも人にも興味を失っていた心が少しずつ動き出す。
大谷石の町並みなど大谷町ならではの風景を活かしながら、時代を超えたレシピを通して家族の記憶を紡ぐあたたかな物語だ。日本おいしい小説大賞を受賞しただけあって、登場する料理の描写がとにかく食欲をそそる。
ナカスイ! 海なし県の水産高校
村崎なぎこ/祥伝社

海のない県で、青春は魚の匂いとともにあった
脱普通を目指す女子高生の鈴木さくらが選んだのは、内陸県でありながら全国でも珍しい水産高校、栃木県立那珂川水産高校だった。淡水魚専門の授業や個性豊かな同級生たちに戸惑いながらも、さくらは仲間とともにご当地グルメの祭典への出場を目指すことになる。
海のない栃木にあえて水産高校を置くという発想の面白さと、そこで繰り広げられる等身大の青春模様が軽やかに描かれている。実在する馬頭高校水産科をモデルにした、細部まで作り込まれたディテールも読みどころのひとつだ。

